ABOUT
皆さんこんにちは。
「たむらイングリッシュルーム」の、たむらよしこです。
たむらイングリッシュルームは、本気で英語を勉強されたい方向けの、
個別指導の教室です。25年間、大人や中高生や学生さんを対象に
延べ1万時間ほど、丁寧なレッスンを積み重ねてきました。
「海外に転職したい」「留学のためTOEFL対策したい」
「職場でTOEICの点数が必要」
「学校の英語は苦手。でも好きになりたい、得意科目にしたい」
「海外旅行で英語を喋りたい」
「自分の子どもに英語を教えるために習いたい」という様々な方々に、
一人一人の目的に合ったレッスンをモットーに、実践してきました。
たむらイングリッシュルームは、「あくまでも生徒さん中心」
そのため長年グループレッスンでも2人以下で、最近では
個別レッスンのみに特化しています。
英語学習には、実は年齢、進度、性格、言語能力、理解力、
適応力など様々な要因が関わっており、
他の人と同席レッスンが良い影響ばかりとは限らず、
個人間の能力のギャップを調整するために
講師がレッスン中に非常に気をつかうことになる、
と痛感したからです。
個別レッスンであれば、分からないことは決して
分からないままにせず、また分かったら即座に次に進むことができるので、
貴重なレッスン時間を1分もムダにせず最大限に活用することができ、
生徒さんに大きなメリットとなります。
「生徒さんに最大のメリットを」
それが、この教室の最優先事項で、一番重要なことなのです。
たむらイングリッシュルームとともに歩んだ道
これから、私の個人的な人生の歩みについて、お話しします。
私がたむらイングリッシュルームを始めた時、
ある夢がありました。
29歳の時、シンガポールのラジオ局でADとして働いていた当時、
国民がだれでも皆んな英語を喋って、
世界中の国にすぐに英語で電話がかけられ、
グローバルにビジネスができる社会、
という光景を目の当たりにして、
「誰もが英語を話す社会を、日本に実現させたい」
そんな思いが、湧いたのです。
私自身、英語学習にはなみなみならぬ思いがありました。
まず最初のきっかけは、大学2年の夏、
インドとパキスタンに行った時のことです。
大学のシルクロード研究クラブで行った、
インド・パキスタン踏査旅行で通訳をまかされ、
中、高を通して学校で習った英語を初めてカタコトで喋ってみたところ、
「自分の英語が通じる!」
そして、インド人やパキスタン人という全く未知の世界の人々と
仲良くなれたという、素晴らしい体験をしたのです。
この体験から、英語ができる事の素晴らしさに目覚め、
「私はこの人生で、絶対に英語を喋れるようになりたい!」
と強く心に決めました。
大学3年次には、第二外国語の先生に声をかけられて、
香港に1ヶ月中国語留学もチャレンジしてみたり、
4年の時にはシンガポール国立大学に派遣交換留学をし、
英語と中国語を学びながら、たくさんの友人と楽しい思い出を
作ることができました。
その後就職で、日本橋の国際会議運営会社に
意気揚々と就職しましたが、1年たらずの留学経験では
ビジネスの電話の取り次ぎの英語でさえ、しどろもどろ。
緊張して頭が真っ白で、相手の名前も会社名も聞き取れず、
自分の英語力のなさに、愕然としました。
お陰で、まず私は英語をどうにかしなければ、という
モーチベーションが一気にマックスまで爆上がり(笑)し、
その会社を辞め、英語の講師になりました。
学ぶには、教えるのが手っ取り早いと思ったのです。
英語を上達させる目的で入った、ジオスという英会話学校で、
毎日同僚の外国人講師と英語を喋り、聞き、英語で業務日誌を書き、
洋書も趣味でどんどん読むうち、英語力もどんどん上がりました。
そしてTOEICという試験を会社に受ける事を奨励されたので
どんな試験か何も知らず受けたところ、初回830点で、2回目は
930点が取れました。
そしてその頃、英検準一級合格ののち、
夢だった英検1級に合格することができました。
上記の全部がジオス在籍中の、25歳から28歳の3年以内に起きたことでした。
一級は実は問題集を買っていましたが、結局やらないうちに
試験日がきてしまい、とうとう、やらずじまいに終わりました。
それでもなぜ合格したかというと、
この頃あるアメリカ人女性作家の洋書にハマってずっと読んでいたり、
直前にも600ページ以上あるニューヨークベストセラーの洋書を
夢中で読了していたので、
一級の問題の量がぜんぜん多いと感じず、楽しいラクラク〜という
軽い感覚で取り組めたからです。
この経験から、英語力を上げるには過去問題集は必ずしもいらない、
という実感が、私の中にはあります。
(もちろん日本語でも岩波新書など学者が書いた本ばかり読んで勉強を
続けていました。英検に必須の論理的思考や言語理解の瞬発力を
培うことができ、トピックに慣れ親しんでいたのも良かったと思います)
その後ジオスを辞め、インドネシアに社長秘書として
派遣駐在し、その半年後にはシンガポールに渡って、
やってみたかったマスコミ関連の仕事で、
ラジオ局のアシスタントディレクターをやりました。
ラジオ番組作りは、毎日が最高に楽しい日々でした。✨😆
そして話は最初に戻ります。
2000年、30歳で、
「自分自身の英会話教室を開いて、
シンガポーリアンみたいに英語が喋れる日本人を育てる!」
という夢を胸に、
シンガポールから生まれ育った地元の大分に戻りました。
東京に12年間いて、大分は高校時代以来だったので、
「英会話を習いたい人は、果たしているのだろうか?」
と、右も左も分からないまま、不安な所からの出発でしたが、
広告を出すと、思いがけずすぐに問合せが殺到し、
月曜から土曜まで、スケジュールがいっぱいになりました。
そんな、突然東京から帰ってきた娘の開業を非常に心配しながら
教室用のアパートの保証人になってくれ、
教室が無事軌道に乗ったのを見て、誰よりも喜んでくれた私の父親が、
この「たむらイングリッシュルーム」の名付け親です。
そんな一番の協力者の父は今年2020年の2月に、
脳梗塞による8年間の寝たきりの末、亡くなりましたが、
思えば父は、昭和ひと桁生まれながらも洋画とコーヒーが好きで、
海外旅行はしたことはないけれど、アメリカ文化に憧れがありました。
この教室をずっと陰ながら応援してくれた父と、
こんな破天荒?な私をいつも支えてくれている母と妹に、
心から、感謝しています。💖
さて、話は戻って、教室は順調に進み、
東京の英会話スクールで鍛えたティーチング経験をフルに活かし、
週35時間レッスンをして、たくさんの生徒さんを、
アメリカの大学院や
海外の企業や
短期プチ留学などにどんどん送り出すうち、
自分の英語力も上がり、TOEIC990満点中980点になっていました。
それでも自分では、え?TOEIC980点って、こんなもの?
という気持ちが拭えず、
もう日本にいてはだめだ、
もう一度ちゃんと英語を学び直したい✨😣
という気持ちが頭をもたげ、ネットで学校を探し、
5年間がむしゃらにレッスンして貯まったお金で
夢だったアメリカの大学院留学をし、
土日もなく毎日10〜15時間の勉強を貫き、
1年半で外国語教授法の修士号を取りました。
そしてこれもまた10年来の夢だった、
地球一周クルーズのボランティア通訳で
22ケ国を訪れるという
壮大な冒険をして、無事帰国したのち、
縁あって地元の国際大学で通訳・翻訳職員、そして兼任の
英語講師として、2007年に働き始めました。
この通訳・翻訳専門職員の採用試験は、日本語の事務的な書類を
英語バージョンにする、翻訳の筆記テストでしたが、
アドミニストレーション・オフィスの方に試験後、
「おめでとうございます!うちの大学始まって以来、
田村さんが日本人で初めての合格者です。
うちの外国人の専門職員が、She is wonderful😃!
って褒めていましたよ!」
と言われ、とても驚きました。
この専門職は、英文を書かせる採用テストのため日本人には不利で、
それまで英語のネイティブスピーカーしか合格者はいないということでした。
APUでは英語の心得のある人が多く、和訳はたいてい誰でもできるけど、
英訳となると、なかなかネイティブスピーカーのおメガネに叶うのは
難しいということでした。
この2000年に開設した、外国人の人口が半数を占める国際大学、
APU「立命館アジア太平洋大学」で働いてみたいというのは、
ちょうど同年に帰郷して以来の、
私の切望でもありました。
シンガポールにいた時、ラジオ局のパーソナリティの1人に、
よしこちゃん!APUっていうすごい国際大学が、
よしこちゃんの地元に来年オープンするんだってよ!
これって運命じゃない😆⁉️
と言われて、
え〜❗️✨
なんて素敵〜😍‼️
とものすごくワクワクしたのが、30の時でした。
あれから教室のおかげで貯まったお金でアメリカで修士号をとり、
37歳の時はなんとそこに職員、ましてや先生として勤めることになるとは…。
あのひと言から、すでに運命に導かれていたのかも知れません。
私の英語は、大学時代のシンガポール留学も含め、
20代のとき東南アジアで培ったものですし、
その当時、暖かい現地の方々に本当にお世話になったのが、
今でも忘れられません。
このアジア太平洋からの学生が集まる大学に貢献することで、
シンガポールでお世話になったアジアの人々に
恩返しがしたい!と思っていたので、
多言語が飛び交う、懐かしい雰囲気の学校で、
アジアの希望を一身に担った優秀な学生たちと
授業を通して触れ合うことができたことは、
私にとって、宝物のような有り難い時間でした。😆💕
また、
それと同時に、英会話を大人たちに教えたい✨、という熱も
まだまだ冷めやらず、🔥
今度は父から快い協力を得て、実家の敷地に30畳の教室を建て、
もう一度たむらイングリッシュルームを再開し、
昼は大学、夜は教室と、市をまたいで行き来する生活が始まりました。
APUでは、入った翌年、人事から通訳・翻訳職員と講師、
どちらの職に専念してもいい、と言われたので、
講師だけを選んでいました。
英語科の同僚がほぼ外国人ばかりの中、
10年間、必修科目の英語やTOEFL特殊講座を教えました。
APUでは、
「授業中は日本語を一切喋らない」🤫
というのが原則で、セメスターが終わるまで学生と英語で話していたので
学生はみな私を純粋な日本人ではないと思っていたことだろうと思います。
実際そこでは顔を見ただけでは、どこの人かまったく分からないので、
(日本人に見えても日本語が通じない事も頻繁にあります)
あまり、なに人なのか気にせず、とりあえず英語でコミュニケーション
できればオールオッケー👍という感じで、
同僚の先生たちもよく入れ替わるので、どこの国の人かとか、
どんな生い立ちかとかまったく知らないまま、一緒に仕事してました。☺️
見た目は中国人だけど、ニューヨーク出身で
話しかけてみたらバリバリのアメリカ発音の人とか、
日本人にしか見えない学生に日本語で話しかけたら
Sorry, I don’t understand Japanese.😉💦と言われたり、
台湾出身の日本人とのハーフで、
だけど両親とも日本語喋れず家族でオーストラリアに移住してて、
日本語を学びに日本に来て、オランダに交換留学する学生などなど。。。
APUの人たちは皆んな、人種も国籍もいろいろで複雑なのです。笑。😅
あ、そう、でもまあ、あなたはあなたよね!
という感じで、もう全く出身地も気にしなくなりました。
わたしはわたし、
あなたはあなた、
どこで生まれ育っても、
あなたはあなた。
皆んな違って、皆んないい! (笑)☘️
という感じで。
本音のところ、この大学ではとにかく毎日がスケジュールとの闘いで、
教員も学生も、所定の目標に到達するのに必死で、その人がなに人かとか
肌の色は何色かとかそんな悠長なこと一切、気にしてられないのです。😂
私のクラスも、日本人を始めモンゴル、ミャンマー、インド、中国、韓国、
インドネシア、アメリカ人とのハーフなど、色々な国籍の学生がいましたが、
皆一律のカリキュラムで勉強し、同一の基準で成績評価を行なっていました。
その後、大分大学を紹介され、3つのワラジ、
(APU、ブンダイ、教室)をはいて目まぐるしく
動き続けていましたが、
アラフィフになってからは大分大学と教室の2ヶ所に落ち着いています。
大分市内だけの移動ですむ、というのが大きな理由です。
大分大学では現在、非常に真面目で堅実、
未来ある理工学部の優秀な学生たちに、
オンラインで英語の必修科目の授業をしています。😃
教材は教員の采配で選べ、これまで10年間はTOEICの教材を使用してきましたが、
時代の転換点に立ち、社会の雰囲気が大きく変わってきているのを感じています。
そのため、学生たちの末永い自学へのモーチベーションに繋がるよう、
インパクトのある知的な遊びとして「生きた英語の楽しさ」に触れることを目的に、
最近は映画や音楽関係の大学生用教材を積極的に採用して、
私自身も学生と一緒に新しい試みを楽しんでいます。
個人的には、オンライン授業の方が学生との距離が近く感じられるし、
学生も、教室でたくさんの人の中で座っているのと違って、自宅の自室で
のびのびと集中して授業を受けれている様子なので、お気に入りです。
後ろの方に座っている学生の顔が見えにくいとか、
教室の両端同士だと発表者の声が聞こえない、ということもありません。☺️👍
コロナが落ち着いても、私はオンライン授業を大学に希望申請しようと
思っています。試験の行い方などまだまだ課題はありますが、
ひとつづつクリアしていきたいと思います。
6月現在たむらイングリッシュルームでは、
換気をしながら、1対1のレッスンのみ行なっています。
入退室時に生徒さんに殺菌ジェルを使ってもらい、
レッスン終わりにはテーブルを消毒し、
レッスン中はマスク着用の上、空気清浄機も使用しています。
コロナの中でも少しずつ通常通りのスケジュールに戻していきたいと思っていますので、
レッスンのご要望がありましたら、お気軽にお電話ください。🌷☺️
これからも少しでも、私が夢見た
「日本人が英語を使ってビジネスする」
そんな時代に近づけるよう、邁進していきたいと思っています。
そして、私がたくさんの夢を叶えたように、
皆さんの憧れや、素敵な夢を叶えるお手伝いができたらと、
思っています✨😊🌈
以上、ここでは、英語とともに歩んだ私の人生を語ってみました。
私の英語の勉強については、また別の機会に
ブログ記事などで語っていきたいと思います。
ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。☺️
2020年6月14日
たむらよしこ (田村淑子)
1968年大分生まれ。
大分県在住
●資格
旅行英検1級 (‘93)
英語検定1級(‘95)、TOEIC980点(‘01)
MA TESOL外国語教授法 修士号取得(‘05) (アメリカ・ロサンゼルス)
●経歴
国際会議通訳翻訳コーディネーター (東京)
ジオス英会話講師 (東京)
半導体製造業社長秘書 (インドネシア)
イギリス法人ランク・ゼロックス (シンガポール)
日本語ラジオ局アシスタントディレクター (シンガポール)
APU立命館アジア太平洋大学
別府短期大学
●現在
大分大学 非常勤講師、
「たむらイングリッシュルーム」主宰
●渡航歴
インド、パキスタン(歴史研究旅行)、香港(短期留学)、マカオ(社員旅行)、
台湾(ホームステイ)、シンガポール(留学、就職)、マレーシア(1人旅)、
タイ(旅行、バケーション)、ベトナム(オリバーストーン監督映画「天と地」の著者レリヘイスリップのアテンド通訳、
小学校寄贈式通訳、観光)、インドネシア(セミコンダクター工場派遣駐在社長秘書)、
中国(青島に一週間語学留学)、韓国(観光、買い物温泉旅行)、
バングラデシュ(女性支援NGO訪問)、スリランカ(観光)、
エジプト(ピラミッド観光)、ヨルダン(死海、ペトラ遺跡観光通訳)、
ギリシャ(パルテノン神殿観光通訳)、フランス(観光)、スペイン(観光)、
アイルランド(アムネスティ・インターナショナル訪問通訳)、
ノルウェー(フィヨルド観光)、アラスカ(観光)、カナダ(ネイティブカナディアン訪問通訳)、
アメリカ(ニューヨーク一ヶ月ジオス褒賞ホームステイ研修、国連訪問、報道官スピーチ通訳、
国連NGO会議にてヒロシマ語り部のアテンド通訳、ロサンゼルス大学院留学)、
コスタリカ、パナマ、メキシコ観光など。